堂崎教会

県指定有形文化財<昭和49(1974)年4月9日指定>

堂崎教会のあゆみ

 寛政9(1797)年大村藩から五島への移住が始まり、約3年の間に3,000人が移り住みました。その中から奥浦地区に住み着いたキリシタンは、平蔵、浦頭、大泊、浜泊、堂崎、嵯峨瀬、宮原、観音平、半泊、間伏に住み着き、地区の寺の壇徒となり仏教徒を装い、密かにキリスト教の信仰を守っていたといわれています。絵踏は嘉永元(1848)年ごろから2~3年おきに行われていました。信徒発見後まもなく禁教政策の続く中、危険を顧みず堂崎、浦頭、大泊の信徒が大浦天主堂に行って密かに教理を学んで帰りました。
 明治に入り、元(1868)年の久賀島牢屋の窄殉教事件をきっかけに奥浦地区でもキリシタンに対する拷問や捕縛、入牢などの迫害が行われました。
 明治6(1873)年、ようやく禁教の高札撤去がなされるといち早くフレノー師が来島し、堂崎の浜辺で五島初のクリスマスミサが捧げられたことが地元で語り継がれています。先祖代々、神父の来島を待ちかねた信徒達にとって最上の喜びであったに違いありません。明治10年には司祭が常駐するようになり、五島での本格的な司牧が開始され、以後島内各地に小教区制度が整うまで、堂崎は五島キリシタン復活後の拠点としての重要な役割を果たすことになるのです。
 明治13(1880)年パリ外国宣教会マルマン師によって、堂崎に仮聖堂が建立されました。後任のペルー師によって建て替え工事が行われ、明治40(1907)年現在の赤レンガ、ゴシック様式の本格的洋風建築の教会が完成し、翌明治41(1908)年5月10日、クーザン司教によって祝別され日本二十六聖人に捧げられました。落着きと安定感のある美しい内外観を有しており、五島の他の同型教会のモデルになりました。
 内陣には26聖人の一人聖ヨハネ五島(五島出身の青年)の聖骨が安置されています。堂崎教会の施工は野原与吉棟梁で、野原の下で修行中であった後の教会建築の名工・鉄川与助も建設に参加しています。当時の建築技術を物語る証しとして昭和49(1974)年4月9日、長崎県の文化財に指定されました。
また昭和52(1977)年、内部に堂崎天主堂キリシタン資料館が開設され、布教時代から迫害を経て復活に至る信仰の歴史が展示されています。迫害下、潜伏せざるを得なかったキリシタンたちの苦悩や密かに信仰を守るための知恵、また復活後の宣教師達の布教にかける思いなどを感じていただけると思います。
 更にこの地は宣教再開と同時期に宣教師の指導のもとに始まった子部屋と、その事業母体となった女部屋発祥の地でもあり、信仰に貫かれたもう一つの歴史が刻まれています。
 宣教師達が五島にやってきた明治の初期、当時の五島の人々の暮らしは非常に貧しく、赤子が生まれても食べさせることができず、間引きといって密かに闇に葬らざるを得ないほどの状況にありました。この悲惨な状況に心を痛めた宣教師はすぐに子どもを引き取り、近隣のキリシタンの乙女達を集め世話をさせました。その頃、宣教師が通りそうな道端には赤子がそっと置かれていたこともありました。彼女達の何人かは独身のまま子ども達に奉仕する道を選びました。困難に満ちた子育ての日々を、彼女達は希望を持って命の尊さを賛美し、祈りながら多くの子どもを育て上げ社会に送り出してきました。
 こうして、信仰の道に生涯を捧げた宣教師達と協力を惜しまないキリシタンの乙女達によって始められた救済事業は、時の流れの中で場所と形を変えながら児童養護施設奥浦慈恵院お告げのマリア修道会奥浦修道院となり現在に至っています。

【参考文献】
堂崎天主堂献堂百周年記念誌五島キリシタン450年の軌跡:堂崎天主堂献堂百周年記念実行委員会
地元信徒からの聞き取り
礎 お告げのマリア修道会史:お告げのマリア修道会

所在地

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