高嶺十之進

更新日:2019年10月4日

十之進は、今から300年ほど前、江戸時代の中ごろ、五島各地の土木の仕事を進め産業の発展につくしました。

農業用のため池をつくる


翁頭山のふもとにある山戸池

福江の翁頭山(おうとうざん)のふもとに、現在、農業用のため池として使われている翁頭池(約4ヘクタール)と大戸池(約2ヘクタール)があります。この大戸池の工事は、十之進が手がけた工事としてはもっとも大きなものです。
水田に水を送るだけでなく、周辺の猪掛山地(いかけさんち)をゆたかな水田に変えることを可能にする大きな工事でした。
また、十之進の名前をとり「十之進開き」という地名が残るほど、人々に喜ばれました。大戸池と昭和のはじめごろにつくられた翁頭池は、今でも本山地区の農家の方に大切に利用されています。遠いところでは、4キロメートル以上はなれている野々切地区までおよそ140ヘクタールの水田に計画的に配水されています。

橋をつくる


昔の橋のなごりを残す川ぞこの石

鰐川(わにがわ)の、橋の工事の責任者を五島藩から命じられ難しい工事をやりとげたのも十之進でした。
鰐川は福江島の中央部にある山内盆地の水が集まり、岐宿湾に流れており、県内でも水量がとても多い川の一つで、大雨の時には激しい流れとなり、橋は何回となく流されました。

満潮時には海水の逆流もあり、川をわたる岐宿の村の人々は苦しい生活を送っていました。困った村人は、藩に橋の建設をお願いしたのです。
十之進は、当時の技術では考えられないような方法で橋を完成し、村人を救うことができました。

十之進は流れの速い、しかも、水量の多いこの川に橋をかけるために、水の力を受けにくい橋の形を工夫しました。まず、長い縄を両岸にわたし、まっすぐに引っぱりました。縄は水の力を受け、持つ人は力をこめなければいけませんでした。

十之進は、長い縄のあまった部分を少しずつ川に流し、まっすぐにはった縄をゆるめていくようにしました。そして、縄を伸ばしたり、縮めたりしながら、一番力のいらない所を見つけました。その時に、縄の流されている形を見るとSの字になっていました。その縄の形が一番水の力を受けにくいと思い、橋の形をSの字にしようと考えました。

しかし、つくっていこうとする橋のSの字の形を川に書くことはできません。どのようにしてSの字の橋をつくっていったのでしょうか。十之進は、Sの字になっているゆるめた縄の所へ竹を打ちこんでいくようにしました。

その竹を目印にして橋づくりの工事を進めていきました。
土や木材を使わないで石を積んでいくだけの方法で完成した鰐川橋は、昭和31年、新しい橋ができるまでしっかりとした形のまま利用されてきました。

岐宿、福江間をつなぐ大切な道路として、その役目を十分に果たしました

道路をつくる

このほかにも、地域の開発をたくさん行いました。特に、道路の整備に力を注ぎ、岐宿、三井楽、玉之浦街道の道づくりを行い、産業文化の交流をさかんにしました。