近藤淳吉

更新日:2019年2月21日

近藤淳吉は、大正3年(1915)から12年間、富江町長(村長)として数々の仕事を行い、その成果を残しました。

近藤淳吉

1 先生から富江の村長へ

淳吉は、慶応(けいおう)3年(1867)に生まれました。長崎師範学校を卒業すると、五島の日島(ひのしま)小学校(若松町)の先生になりました。その後、ふるさとの富江小学校の校長になり、大正3年、村の人たちにすすめられて富江村長になりました。

2 町有林を育てる

町有林を育てる

当時の富江町〔大正11年(1922)富江村から富江町になる〕は、土地の約半分が開拓されていない山林でした。これは、町にとって大切な資源でした。町の森林のほかにそれぞれの村の山林もあったので、それぞれで手入れをしたり、木を植えたりしていましたが、手入れなどが十分でないところもありました。淳吉は、それぞれの村の山林を富江町の町有林としてまとめました。町有林では、荒れ地を整えてスギやヒノキの木を植えました。また、牧草地や雑木林の整理も行いました。それにより、りっぱな町有林が育ち、のちに町の大きな財産となって学校や役場など、いろいろな施設をつくるための資金を生み出しました。

3 防波堤(ぼうはてい)をつくる

防波堤(ぼうはてい)をつくる

淳吉は、富江港の発展にも力をつくしました。当時の富江港は漁業の中心地として発達していました。サンゴ、カツオがよくとれた時代には、四国・九州各県の1000そうもの漁船が出入りしていました。しかし、富江港は荷あげ場がせまく、水深が浅いという不便さと、港の入口が広いために台風のときには、ほかの場所へひなんしなければならないという欠点がありました。港を新しく整備するには、当時の富江町の予算の何倍もの費用が必要だったので、淳吉は国や県にはたらきかけました。そのかいあって、富江港の整備工事が始まりました。まず、小型漁船の船着場をつくりました。240メートルの海岸をうめ立てて水深を深くし、荷あげ場を広げ、道路も整えました。次に、5か年計画の大防波堤の工事が始まりました。240メートルの北防波堤、100メートルの中波戸(なかはと)、80メートルの南防波堤が完成し、強い風と大きな波から船を守ることができるようになりました。うめ立て地には住宅や倉庫が建てられ、港は次々に整備されました。富江港は、県内でも美しい港として有名になり、大きく発展したのです。淳吉は、上下水道工事も完成させ、長い間水不足に苦しんだ町民を喜ばせました。

  • 富江町の発展1
  • 富江町の発展2

近藤淳吉は、3大事業といわれた植林、港、水道の事業をやりとげ、富江町の発展につくしたのでした。