西村団右衛門

更新日:2019年2月21日

三井楽(みいらく)の海では、昭和(しょうわ)20年からの数年間、万越(まんご)しの日が続(つづ)き、東洋一(とうよういち)の名をますます高めました。
「万越し」というのは、魚のとれる量(りょう)が一万匹(びき)を超(こ)す意味(いみ)で、大量(たいりょう)の意味で使われた言葉です。
多いときには、一回の網(あみ)上げで4、5万匹のブリがとれることもありました。三井楽湾(わん)の赤瀬(あかせ)ブリ定置網(ていちあみ)は、西村家の人々によって開発(かいはつ)され、200年以上(いじょう)の歴史(れきし)をもっています。
明治時代(めいじじだい)の終わりから大正(たいしょう)時代にかけて、網の規模(きぼ:大きさ)や漁獲量(ぎょかくりょう:魚のとれる量)から、東洋一のブリ漁場と呼(よ)ばれるようになりました。この赤瀬漁場を発見し、今日(こんにち)の基礎(きそ)を作り上げたのは、西村家の初代(しょだい)、団右衛門です。

東洋一のブリ漁場発見

団右衛門は、享保(きょうほう)3年(1718年)、岐宿村(きしくむら:今の岐宿町)に生まれました。団右衛門は農業をしながら勉強をし、岐宿村の庄屋(しょうや:村を治〈おさ〉める責任者〈せきにんしゃ〉)を務(つと)めるようになりました。そのころ、玉之浦(たまのうら)や有川(ありかわ)湾では、マグロ大敷網(おおしきあみ)がさかんで、新しい漁場を見つめようという動きが、五島全体に高まっていました。団右衛門も村の発展(はってん)を願(ねが)い漁場の発見に取り組もうと決心(けっしん)しました。
団右衛門は、子どもの団助(だんすけ)と二人で、岐宿から三井楽にかけての海岸を見て回りました。何キロメートルもの海岸を歩いて、潮(しお)の流れや浅瀬(あさせ)の様子(ようす)を調べたりしました。また、山に登って、魚の通る道すじも調べました。ほとんど野宿(のじゅく:外でねること)しながらの調査(ちょうさ)なので、雨の日、雪の日の苦労(くろう)は大変(たいへん)なものでした。5年間もの間、網を入れては失敗(しっぱい)し、調査のやり直しをしては網を入れるのくり返しで、漁獲量は、ほとんどありませんでした。生活は苦(くる)しくなるばかりでしたが、それでもあきらめずにがんばり続けました。福江島の沖(おき)にある赤島から、魚見(うおみ:海の色で、魚の通る道すじや、魚の量を見分ける専門家〈せんもんか〉)をやとい、3人で調査や研究(けんきゅう)を始めてから道が開けました。明和(めいわ)6年(1769年)、ついに、魚の宝庫(ほうこ:たくさんいる場所)、赤瀬漁場を発見したのです。漁場の開発に取り組んでから7年目、団右衛門が52才の時のことでした。さっそく、漁場の経営(けいえい)を願い出ると、7年間の苦労がみとめられて、許(ゆる)しを受(う)けることができました。赤瀬漁場は、三井楽町八の川海岸の沖、約1キロメートルの所にあります。団右衛門は、団助とともに、平田家、浦家(うらけ)の人々と八の川へ移(うつ)り住み、マグロ大敷網の経営にあたりました。はじめのころは、あらしで網を流されたり、浅瀬で網を破(やぶ)られたりで、苦労が続きました。やがて、網の改良(かいりょう)に成功(せいこう)し、大漁(たいりょう)の日が続くようになりました。団右衛門は、潮の流れに強い大型(おおがた)の網を考え出すとともに、年々改良を加(くわ)え、「五島の西村網」と呼ばれるようになりました。その後、西村家代々の人々によって網の改良が行われ、マグロ大敷網から、ブリ定置網(ていちあみ)になりました。その後も、三井楽の人々が網の研究や改良に取り組み、昭和53年には、農林水産(のうりんすいさん)祭りで、みごと天皇杯(てんのうはい)を受賞(じゅしょう)しました。