宿輪卓爾

更新日:2019年10月4日

卓爾は、江戸時代(えどじだい)の終わり、慶応(けいおう)3年(1867年)に、奈留(なる)島村(今の奈留町)浦郷(うらごう)に生まれました。
若くして、村長、漁業組合長(ぎょぎょうくみあいちょう)などの職(しょく)につき、村の発展(はってん)と人々の生活向上のためにつくしました。

漁場組合をつくる

明治(めいじ)のはじめころの島の生活は、傾斜地(けいしゃち)を切り開(ひら)いたせまい段々畑(だんだんばたけ)で、サツマイモや麦(むぎ)を作る、という農業を主としたくらしでした。漁業といえば、自分の家で食べる魚を一本釣(づ)りや延縄(はえなわ:魚のとり方の1つ)でとったり、肥料(ひりょう)に使う海草をとったりするだけの細々としたものでした。
したがって、収入(しゅうにゅう)は少なく、わらぶき屋根の家に住む、カンコロ(サツマイモを切って干〈ほ〉したもの)や麦を主に食べる貧(まず)しい生活でした。明治の中ごろになって、小型縫切網(こがたぬいきりあみ)や地曳網(じびきあみ)などが使われるようになりましたが、多くの漁民(ぎょみん)の生活は、以前(いぜん)とあまり変わりませんでした。
この貧しい島を発展させるためには、漁業生産を高めていくしか道はありませんでした。卓爾は、この考えに立って、漁業改革(かいかく:あらためてかえること)を強力におし進めていったのです。
まずはじめに、キビナ漁を各地区(かくちく)の経営(けいえい)にまかせる、新しい方法(ほうほう)を取り入れました。この方法は、人々の漁業への意欲(いよく)を高めました。また、網の購入や作業がしやすくなり、生産(せいさん)も大きくのびました。次に、海草などの根つけ漁業を村民にすすめ、収入を安定(あんてい)させていきました。

するめ加工技術を高める

奈留島は、もともとカツオ釣りのえさの供給地(きょうきゅうち:必要〈ひつよう〉なところに出す所)として、イワシ漁がさかんでした。ところが、大正12年ごろになると、男女群島沖(だんじょぐんとうおき)のカツオが急に少なくなり、富江(とみえ)から出漁するカツオ船も大きな影響(えいきょう)を受(う)けました。
そのため、関係(かんけい)のある漁業は、苦(くる)しい経営に追いこまれていき、村の人々の生活も、組合の経営も苦しくなっていきました。
卓爾は、この漁業の不振(ふしん:勢〈いきお〉いがふるわないこと)から抜け出すために、資源(しげん)として豊(ゆた)かなスルメ加工(かこう)に目をつけました。それまでの島で加工されたスルメは、製品(せいひん)が雑(ざつ)で評判(ひょうばん)が悪く、あまり売れていませんでした。そこで、特別(とくべつ)に水産試験場(すいさんしけんじょう)から専門(せんもん)の技師(ぎし)をよび、加工の仕方(しかた)を村の人々にも教えてもらいました。それによって、スルメの商品価値(しょうひんかち:商品の値〈ね〉うち)は大変(たいへん)上がりました。注文(ちゅうもん)も増(ふ)え、需要(じゅよう:手に入れたい、買いたいと求めること。)ものびていきました。

静磨は、卓爾の長男として、明治27年(1894年)に生まれました。父親と同じように、町長や漁協組合長を務(つと)め、県議会議員(けんぎかいぎいん)までなり、奈留島だけでなく、五島の他の町や村の発展に努(つと)めました。漁業を共同でする仕組みを整え、今の「まき網漁」のもとをつくりました。また、スルメ作りにも力を入れ、「奈留島スルメ」は、その当時かなり有名なものとなりました。単(たん)に、漁の工夫(くふう)だけではなく、水産倉庫(すいさんそうこ)をつくったり、漁業をしている人にお金を貸して、仕事がしやすくするなど、様々な取り組みを行いました。

教育に力を入れる

宿輪卓爾の像

静磨は、村長として、教育に力を入れました。
まず、優秀(ゆうしゅう)な先生を奈留島に集めました。そのために、他の町や村に比(くら)べ先生の給料(きゅうりょう)を倍近くにしました。
また、一人一人の子どもが、先生とじっくりふれあいながら学習を深めていくことができるようにするために、一学級の児童の数を少なくする工夫をしました。