ごとう歴史散歩
- サムネイル画像をクリックするとYouTubeで動画を見ることができます。
五島市福江地区の中心部は、五島藩の城下町として発展してきました。寛永11年(1634)第二代藩主五島盛利は、五島における中央集権体制を目指し、各地に散在していた家臣たちを福江城下に住まわせる「福江直り」を断行。このとき造られた武家屋敷通りが今も各所に残されています。
九州百名山に数えられる七ツ岳の麓にある温泉地・荒川。最も古い記録によると安政3年(1856年)に発見されたと記されていますが、温泉を利用して入浴するようになったのは明治の終わりごろからのようです。
「肥前風土記」に「美弥良久(みみらく)の崎」として記されている現在の三井楽町柏。奈良時代の末期、遣唐使船が南路をとるようになって以降、この地は中国へ渡航する船の最後の寄港地として、大陸へ渡る危険な航海に臨む人々のまぶたの裏に焼き付いた景色だったかもしれません。
第30代五島家当主(第9代藩主)五島盛成は、石田城(福江城)の築城にあたり、北東から吹き寄せる波を防ぎ、築城工事を容易にするため、また河口の港に出入りする船の安全を確保するために、導水・防波堤、灯台を築くことを命じました。
富江町はかつてサンゴ漁の拠点、サンゴ加工の名産地として栄えましたが、その陰では危険な漁に伴い多くの海難事故が起こりました。新田次郎作、小説「珊瑚」は、実際の遭難記録をもとに、サンゴ漁や当時の遭難事故がリアルに描かれています。
大宝寺は、大宝元年(701年)に中国の僧、道融が持統天皇の勅令を受けて建てたといわれています。空海が大同元年(806年)遣唐使として大陸に渡った帰りに大宝の浜に上陸、大宝寺に滞在し真言宗を開いたそうです。
幕末になり、五島近海に西洋列強の外国船が出没し始めたため五島藩は築城許可願いを出しましたが、約半世紀の間築城許可はおりませんでした。ようやく許可がおりたのは、嘉永2年(1849年)ペリー来航のわずか4年前のことでした。